自転車に乗っていると、面白い看板や変な看板・標識に出合います。ポタリングで見つけた看板、略して「ポタ看」。この1年に撮った写真の中から、“いろんな意味”で気になったポタ看を紹介します。第1回は「安食卜杭」。
ロードバイクを始めて半年間走ったのが、花見川サイクリングロードから印旛沼サインクリングロードを経て、利根川に至るコース。人家もほとんどない北印旛沼の西岸を走り終えると、あとは長門川に沿って利根川まで5km近く走るだけ。その最後の5kmの途中、国道356号のセブンイレブンの少し先にあるT字路の信号機の地点名標識が「安食卜杭」です。
ここを右に曲がれば、利根川までもう少し。
最初は気に留めていなかったのですが、ある日、「安食卜杭」が
読めそうで読めない!
ことに気づいて、地名表示のローマ字を改めて見ると、
Ajikibokkui
あ・じ・き・ぼっ・く・い ?
読み方がわかっても、
「安食?」「卜杭?」と、さらに疑問が湧いてきます。
地名の由来は言い伝えが多いので、深みにはまる嫌な予感。
まず、「安食」の由来
写真は、安食町にある成田線の安食駅です。サイクリングロードからは少し外れていますが、一度だけ行ったことがあります。
「安食」の由来は、応神天皇の時代(4世紀末から5世紀初頭)に漢字や農耕技術をもたらした帰化人・阿自岐(あじき)氏が居住したとする説もありますが、栄町安食の総鎮守「駒形神社」創建の言い伝えの方が説得力があります。
天永2年~仁平元年(1111年~1151年)にかけ、この辺り一帯が大水害や干ばつに見舞われ飢饉が続いた。仁平元年9月9日郡司であった大浦朝臣廣足が駒形山の大台に五穀豊穣の神を祭ったところ翌年秋に豊作となった。以後も末永く民が食に安んずるように、従来呼称されていた川崎村から安食村に改められた。
「駒形神社」創建の言い伝えは、「利根川図誌」という江戸時代の郷土史にも載っています。
安食卜杭はどうやってできたのか
「天明六年・安食村御差出明細帳」に「寛文2年(1662年)に安食村卜杭野を開発してできたのが安食卜杭新田」とあります。「御差出明細帳」というのは、領主・代官の交代などの時、村側で村状を記し、役人に提出した帳簿です。その「安食卜杭新田」が明治時代に新田の二字が削除され安食卜杭になったということです。
大事なのは、「安食村卜杭野」という所がもともとあったということです。
(卜杭野は、「ぼっくいの」「ぼっくいや」どちらの読み方が正しいかわかりませんが、苗字の杭野は「くいの」と読むらしいので、ここでは「ぼっくいの」と読んでおきます)
じゃあ、「卜杭野とは何か」、当然知りたくなります。調べました。
「卜杭野」とは何か
「卜杭」が付く地名は、安食卜杭のほかに酒直卜杭(さかなおぼっくい)があります。
共に今は、印西市に属しています(話は少しそれますが、東洋経済新報社「住みよさランキング」では印西市が7年連続日本一です)。
しかし、「酒直」や駒形神社がある「安食」という地名があるのは隣の安食町です。
今は別の町と市に属していますが、「安食と安食卜杭」「酒直と酒直卜杭」は地続きの地域です。
酒直卜杭も寛文2年(1662年)に酒直村の埜原(やわら)を開発してできたものです。
「安食卜杭新田」は「卜杭野」を開発して作られ、「酒直卜杭新田」は「埜原(やわら)」を開発して作られたということです。
「埜原(やわら)」とはなんでしょうか。
調べると、安食や酒直の西隣り、「笠神(かさがみ)」という地域の故事に「埜原(やわら)」の説明がありました。
笠神と言うところは平坦で肥えた土地が丘をめぐり、東北は利根川印旛沼に臨んだ村であったが、地続きに蘆(あし)や萩(はぎ)の繁る原野があり、埜原(やわら)と呼ばれていた。隣接する笠神村と小林村の農民にとっては田畑の肥料とする草木を供給する重要な土地その帰属を巡ってしばしば紛争の原因となっていた。
なぜ酒直の埜原も安食の卜杭野も「卜杭新田」と呼ばれるようになったか、それが一番知りたいことですが、わかりません。
ただ、「埜原(やわら)」も「卜杭野(ぼっくいの)」も、同じような土地、その地域の人たちが共同で利用する原野だったことは推測できます。そして、埜原は地域の揉め事の元凶になっていた。
写真は北印旛沼ですが、真ん中あたりに見える葦原が当時は、埜原(やわら)や卜杭野一面に広がっていたのかもしれません。
もう一つ共通しているのは、「安食卜杭新田」も「酒直卜杭新田」も寛文2年(1662年)に幕府領として開発されていることです。
徳川家康の命令で始まった「利根川東遷」で、それまで東京湾に注いでいた利根川を銚子から太平洋に注ぐように変わったのが1654年です。同時に行われたのが流域の新田開発で、「安食卜杭新田」も「酒直卜杭新田」も利根川東遷の6年後に開発された新田です。
(ただし、利根川東遷でこの地域の洪水の被害が少なくなったと考えるのは間違いで、逆に利根川の水が流れ込んできたことで印旛沼周辺は洪水範囲が従来以上に広がる結果になっています。幕府は3度にわたって治水工事を試みますが、いずれも失敗。根本的な解決は昭和までかかっています)
「卜杭」とは?
で、肝心の「卜杭(ぼっくい)」は何か。
期待を持たれる前に言いますが、よくわかりません ヾ(・・ )ォィォィ
(1)「卜」はカタカナの「ト」ではなく、「ボク」「ウラナう」と読む漢字です。
(2)日本語の地名や名前の表記には漢字の音を借りているだけで、使われている漢字に意味がない場合があります。
卜杭を占いなど呪術的意味を持った棒と考えるべきか、卜杭も棒杭と同じ、ただの棒と考えるべきか。どっちなんでしょうね。
やはり引っかかるのは、安食卜杭は安食卜杭新田と呼ばれる前から「卜杭野」と呼ばれていたことです。そして、「卜杭野」と呼ばれていなかった酒直の埜原(やわら)まで、新田開発後は酒直卜杭新田と呼ばれていることです。
治水や田んぼを確保するために木杭を打ち込んだ場所と考えるのが合理的な気がします。
広重が描いた干拓工事の棒杭の列(ページの一番下)
「山陽線 棒杭のある風景」は川の護岸のための杭、「広重が描いた干拓工事の棒杭の列」は干拓工事のための杭ですが、「卜杭野」は沼地と田んぼの境に杭が打たれていたのかもしれません(あくまで勝手な推測です)。
と思っていたら、こんなブログがありました。
2番目の写真をみてください。昔、成田の子供達は人形を棒の先に付けてたたきあいをし、勝ち残った人形を厄払いや五穀豊穣を願って、棒の先に付けて村境に立てる風習があったという話です。
「房総のむら」というのは、江戸時代の房総の町並みや村をリアルに再現している施設です。安食町にありますが、成田は安食町の隣にあります。
安食では卜杭が呪術的な意味で立てられていた可能性も否定できません。
「卜杭野」に対して同じような解釈をしている人がいました。
酒直・安食村と印旛沼の間に広がる葦原に、村人はその年の豊凶を占い、或いは豊作や平安を祈る依り所として巨きな杭をたて「卜杭野」と呼んでいたのではないだろうか。そこはまた印旛沼に面し、悪霊、病魔、或いは幸せも出入りする村界でもあった。
卜杭は「悪霊、病魔、幸せが出入りする村界」。
こういう解釈は正直嫌いじゃないです。
でも、そうなら一層、酒直の「埜原(やわら)」が、なぜ「酒直卜杭新田」と呼ばれるようになったか疑問になります。
酒直も「埜原」ではなくて「卜杭野」だったんじゃないのと疑いたくなります。
先ほどの地図をもう一度掲載しますが、今も安食と酒直の地名の付け方はそっくりだからです。
安食ーーーー酒直
安食台ーーー酒直台
安食卜杭ーー酒直卜杭
しかも、安食の中に安食台があり、酒直の中に酒直台があるところまで似ています。
でも、酒直が「埜原」ではなくて「卜杭野」だったとしても、「卜杭」とは何か、答えが出るわけではないですが。
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